かいじゅうおどりがしたい。

●「かいじゅうたちのいるところ


叫び声ってなんてビタースウィート。
感情を伝達するのに適しているのは涙じゃなくて叫び声だ。


かいじゅうたちのいるところ」を先週見た。監督はスパイク・ジョーンズだから夢見がちラストボーイな物語になるとは思っていたけど、驚いたのは、彼は原作の絵本を解釈して柔らかくバージョンアップさせていた。


なんだってそうで、物語は誰かの中を通して新たに語られるから興味深いのであって、ただの焼き直し、原作を損ねない完璧なつくり、なんてこちとら求めていない。それは仕事として美しいのかもしれないけれど、それでも私はメイドインイタリーのストールより、手作りのマフラーのほうがロマンティックだと思ってしまう。もちろんセンスは問われるけど、それ以上にいったん自分トンネルを通過した、しかも思い入れのある作品は圧倒的に重量が違う。私がドキュメンタリーの風体を好むゆえんかもしれないけれど、かなり私的になっていればいるほど興味深い。私的過ぎて「気持ちが悪い」ぐらいで、やっと奥の方まで落ちてくる。熟成してやっと完成することもある。そこまでとどまり続ける重力が欲しい。そのためには完結しているのじゃなくて、物語を現実まで引きづり込んでいるものが好きで、それってやっぱり蒼いのかしら。


主人公のマックスくん(本名もマックスくん)のあの理知的であどけない表情。そろそろ体臭を気にする頃あいの夢見がちラストボーイでも感情移入できそうなその目線。
彼は家族とうまく馴染めなくって家を飛び出し、船に乗り漂流されていつのまにかかいじゅうたちのいる島へとたどり着く。そこではまるで、自分のようなキャロルというかいじゅうがまるい家と呼ばれる個人スペースを壊し暴れまわっているのである。食べられてしまう危機に瀕したマックスはとっさに「ぼくは王様だ」とウソをつく。驚き、疑うかいじゅうたち。しかしキャロルはいう「王様ならなんでもできるんだろ。じゃあ孤独もなんとかしてくれる?」


この島はパラレルな世界なんだろうけど、やっぱりかいじゅうたちは全部マックスの心の住人なんだと思う。自分の中にいる多様な自分=かいじゅうたちで、マックスはそのかいじゅうを王様として、ひとつにまとめあげて日々の生活に戻る決意を固める。王様としての役割は破綻していくのだけど、それでも彼はひたむきだ。精一杯の善意が相手に伝わらない、という日常によくある失敗も経験する。終盤画面を支配するのは、さみしさと憤りを抱えて暴れまわる地上のマックスとは違う姿だった。


後半にさしかかると、マックスは母親に言われて嫌だった「手に負えない」というセリフをそっくりそのままキャロルに向けてしまう。プライベートを囲いだす姉や母親と同様に、秘密の部屋が欲しいと言ってしまうマックス。それは、日々の生活で理解できなかった「立場」をみつけてしまったすこし大人なマックスがいた。きっと気づく。姉さんや母さんがどんな気持ちだったか。


なによりこの映画は“叫び声”である。狼の皮をかぶったマックスは叫びに共鳴する。日常で叫び声をあげたくなる場面て、もの凄くしょっちゅうある。言葉にならない思いを伝えたいんだろうけど、言葉にする努力もなくしてしまうくらいに想いが走る。動物的な初期衝動をはきだし、そこにはまるで理性が介在しない。だから有無を言わさず心を打つし、理屈抜きで共感できる。いくつになっても忘れたくないやわらかい繊細な部分。結局ひとは勝手に解釈をしてしまうから、言葉だって的確に伝わるのかどうかわからない。でも、叫びが響き合うのは、互いを共犯者として認めあうような気持ちかもしれない。原風景を共有し、体感温度がぴったり寄り添い合う。成長は命を高い温度で青く燃やしてはじめて到達するんだということを教えてくれる。何といっても印象的なのは、最後のマックスの表情。ぐんとセクシーな男の顔をしていた。それはとても美しい表情だった。