スイッチがはいったら、もう元には戻せないの

わたしはどうしても「Q10」が始まる前にこのことについて書いておかなければなりません。それは「Q10」の脚本家である「木皿泉」の作品についてです。


木皿泉と言う人はわたしが通年ひっかかっていたつまづくとしょうもなくなる瑣末をさらっと撫でてずしんとお荷物を置いて行きます。その重みにいつも私は安堵するのです。現実は小説より奇なりとはよくいったものですが、日常にあるドラマと言うのは”とりたてること”ではないと私は思います。つまり風のように去っていくもの、感情がたくさんあって(なにもかんじない、という感情も含めて)それを堰止めることができないのが、いま生きていることだと感じます。それが日常のおかしみに思えるのです。木皿泉の作品はいつもそうです。フィクションでありながら極めて日常の流れを借りて話が前をむいていきます。


ドラマのように山があって落ちがあることは、日常世界でももちろんあるかもしれません。しかし毎日はもっと急にやってきて、知らない間に自分のなかに入り込み、いつのまにかこころを占拠されている感情が無数にあり、それを別段記さず、夜を越え朝を迎え、いつしか忘れて時間を食べて行きます。それを繰り返して繰り返して生活をしていくことを選択する。

木皿作品は当たり前のようにその機微にひっかかっては言葉にしていきます。だから他のドラマと違うようにわたしには映りました。出会ったのは京都にいる時で、最初にみたのは「セクシーボイスアンドロボ」でした。「すいか」も「野ブタをプロデュース。」もぜんぶそうなのですが、やっぱりわたしは「セクロボ」なんです。普段どうでもいい視聴率のふるわなさが悔しいくらい多くの人がこのドラマをみていないことを残念に思います。


※ネタバレ注意








「忘れたからってぜんぶなかったことにはならないんだからね」


第一話の「三日坊主」では三日で忘れてしまう殺し屋の話がでてきます。
そこでニコは三日坊主に、こう言うのです。

自分がしてしまった選択について中学生のニコは後悔をし、あの時ああしなければ今の事態は免れたのではないか。私のせいなのではないか、と大人に投げかけます。その時この物語の大人の象徴である地蔵堂の社長(浅丘ルリ子)はこういうのです。


「そう、あなたのせいよ。だってあなたひとりで生きているわけではないんだもの。どうしようもなくこの世界と関わっているのよ。」

この世界と関わること、それを自覚したのはいつでしょう。もしかしたら未だ理解できていないのかもしれません。なんなら一生理解できないのかもしれません。それでも、この世界と関わることを理解すればいろんなことがやさしく回るのではないかという幻想は少しだけまだ信じています。

重要な秘密を一人で抱え込んで解決しようとしたニコはパートナーであるロボにもそのことを告げませんでした。だってめんどうなことを知りたくないと思ったから、本当のことを知ったらロボが困ると思ったから、という理由で。そのことを後から知ったロボは「なんで肝心なことを言ってくれないんだよ!」と、ニコをしかりつけるのです。そして後に続けます。


「お前さ、まだ子供じゃん。子供がさ、そんな気の使い方すんなよ!子供なんだからさ!そういうの、さみしずぎるじゃん。大人でもさ抱えきれないものいっぱいあるんだよ。それを子供がさなんで一人で抱え込むかなぁ?」

こどもはこどもに見られたいと思っていました。さみしさと気遣いをコントロールすることを要求するならおとなとしてみてくれと思っていました。おとなこどもみたいなダメ人間な今は考えることをやめてしまった気がします。子供の横暴はさびしさと気遣いの果てに生まれてしまったものだと思います。もちろん全員ではなくても、そういう子供たちがしたいことを選択できないのは自覚がないんじゃなくて集中できないんだと思います。



もしかしたら何かと誤解を招きやすい前田敦子という人がこの「Q10」を通じて、中高生(ピンチケ)に爆弾をしかける役目を担うのではないかという事実をわたしは待ちわびずにはいられないのです。転校生がロボットという設定の奇異さは外膜であって、本当は感情の素直さが前面に出ている話なんだろうなと希望も含めて思います。よくあることですが、よいこととわるいことをいつも両の目で縛り付けているのが木皿泉です。間違いを正さず認めます。それも疑問を抱えたまま。その木皿泉という人たちが(ご夫婦のユニットです)ネジを巻いたのですから、あっちゃんはしあわせものだと思います。


第一話は10/16(土)9:00〜日テレです。これは大事なことです。