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私と推しと推しとの距離

業火に焼かれて苦しみながら灰(high)になる
              (フロム「嵐の夜には」)

愛という名のエゴイストです、か。
以前エントリーにもあげましたが、私は横山さんに嫉妬していると書きました。冗談半分の言葉ですが、確かな感情だと思ったので戒めとしても留めて置きました。理由はわたしの大好きな北原さんの隣に近頃いつもいたからです。AKBで出逢っていなくてもどこかで必ず仲良くなっていた、と本人達が言うくらい気の合う自称運命の2人。北原さんから流れ得る気持ちをいっぱいに受けてすくすくと笑う横山さん。端的にいえばくっそー目ざわり。でも私は横山さんのことも大好きなのです。一体私は何を推し量ったのでしょう。量なのか質なのか。


造作もない。私は横山さんに自分を映したのです。そして私はどうやっても横山さんではないことに嫉妬したのです。自分を押しつけたくなってしまうのは、きっと相手不在のままぐるぐると同じところを回って、その答えの出なさに苛立ちを覚えたからです。当たり前です。そこに相手はいない。つまり、嫉妬するというのは、単に自分のことが好き、な反射じゃないか、そうして叶わないゆえに、自分のことばで好きな子を縛り付けようとしているのです。本当はことばで好きな子を解放すべきところを、誰よりも自分が彼女を表現できるものとして縛りつけようとしている。重い楔を手に持って、目の届くところへ一心不乱に打ちつけておく。勝手に逃げないように。自分の手の中で理想の相手と桃源郷をつくろうとしているより他ならない、と。それは好きということなのか。私にはみえなくなりました。なんちゃんを一度失ってから尚のことそう思い始めました。


好きという言葉の横暴さ。それは制御のできない爆弾みたいなものです。愛を表現できないところに人生の生き辛さがあると言ったのは誰だったでしょうか、表現できないというのは、好きなものを言葉で縛ることと、言葉によって解放する狭間でゆれてうまく着地できない、というところじゃないかと思うのです。


「推し被り敵視」という言葉があります。これは文字通り、推しメン(好きな人)が一緒になった人へ敵対心を抱くということですが、これは一体何なんだろう。考え始めて、それが「表現」としての嫉妬なのか、「対象そのもの」への嫉妬なのかすっかり分からなくなりました。「表現」というのは、勿論ことばじゃなくても、態度や行動も一種の「表現」です。嫉妬というのは、自分が相手に対してうまくやれたことへの自己満足なのか、相手がなにより喜んでいる状態に対してなのか、ごちゃごちゃと分からなくなったのです。でも、当たり前だけどそれは表裏一体でしょう。その人が喜んでくれてやっと、自分のやったことは正解だと思える。自分では自分の正解を裁けないから相手に委ねてしまう。よかれと思ってやったことが、相手にとっては何でもないことだったなんてざらです。相手をベストに表現しているものを目のあたりにして自分の非力さを嘆く。人は響きあうから好きあえる。もしも合わなければ好きじゃない?それを確かめてしまうのがこわくて、推し被りを敵視してしまうんじゃないかと思いました。しようと思えばコミュニケーションがとれる友達や恋人や夫婦とはちがい、アイドル相手には圧倒的にコミュニケーションがとれません。だからその余白を言葉で縛りつけるのです。


私はなんちゃんを好きになった時、なぜかとても解放された気持ちでいました。自分でも気付かないほどに、穏やかなやさしさみたいな温かさが通ったのです。なんちゃんを語る言葉をみてもすべてが温かく見えた。なぜだろうか今でもはっきりとは分からないのですけど、なんちゃんを語る人達が偶然にも、ことばを解放していたからかもしれません。そしてなんちゃんがそうさせるような穏やかな愛に満ちた対象だったからかもしれません。


勿論なんちゃんの側を離れないぱるるに嫉妬したことは一度もありません。ぱるるはなんちゃんのただ側にいるのです。なんちゃんもただぱるるの側にいるのです。愛とはただそこにいること。私のことばで縛り付けなくともなんちゃんの側にはぱるるがいるのです。こまりや鈴蘭やなぁなや仲間がみんないるのです。それだけでなぜこんなにも晴れやかな気持ちに?分からないのですが、また今日もひとつなんちゃんに有難うを言いたいです。



「長い光」

愛とは燃える炎じゃなくて
日向のような風のぬくもり


※本当は8・9期が演じた「長い光」(ソロ:横山さん)をはりたかったのですが、
消えてしまうとあれなので検索してみて下さい。素敵です。