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11/26(月) 劇団大人の麦茶第二十杯目公演 「SUGAR SPOT」

レポ ℃-ute

矢島さん徳永さんかりんちゃんななみん村上さん、オトムギのみなさんお疲れ様です。
無事大阪公演も終わったということで忘備録的に個人的感想をまとめたものをあげてみようと思います。
DVDを初見にしたい方にはこの感想は薦めません。








※ネタバレ注意※








観劇した11月26日(月)は通算9公演目。自身は11月22日(2公演目)に続いて2度目の観劇。


第一印象はなんとなくインパクトのない話だと思った。
シーンシーンの色濃さはあれど、話全体としてなんとなくぼんやりした印象を受けた。まるで日本の単館映画のよう。
映像で何を言うかというご指摘はあるはずですが、オトムギの作品を何度か拝見して、中後半の畳み掛ける感じに強く惹かれて心臓バクバクを味わっていることが多い自分には今作はとてもおだやかな話である。ただおだやかとはなんなのか。舞台のこわいところ。それは自分の置かれている現実とリンクしてしまうものだというところ。


だからかはわからない。
だけど
2回観ると違った。
2回観ると、
くだらないことを大マジにやる男の中の男、誠亮の図らいがありありと迫ってくる。青葉がうわっついてると幻滅した誠亮は実は青葉の大好きな筋の通った男の中の男、誠亮でしかない。1度目の笑いどころが2度目にはせつなさで千切れそうになる。


これは初めてでも思ったことだけれど、矢島さんは舞台の大きさに負けない。物理的な空間というより、物語背景の大きさとかそういうものに。通算9公演目のシュガースポットはいつかより硬さがとれていっそう情熱的だった。耳の赤さをみて血潮を感じる。青葉を演じる矢島さんはいくつも若くみえる。それでいて青葉が凄むときは声を深め、いくつも歳をとる。それがただの低い声、には感じない。腹の底から渦巻く情念。呼吸をする喉の音が混じるような赤黒い声に、どしんと鉛の弾を撃ち込まれる。眼光より切羽詰まった規律正しい眉が恐ろしい。鋭い顎のラインを反射する光に目を奪われる。たった数日で凄味が増している。背中から寒気がした。美しいというのは底が見えない。あの世と現世とのあいだを跨ぐ特異な物語設定であり、そもそも客としてただの物語の追体験であるとはいえ、あんなふうに美人に生でドヤされる体験を2度もして何か変わってしまいそうで、これが舞台ならでは迫力なのだろうかとちょっと吐きそうになった。それでも観切ることが肝要なんだ。こうして今観るから、その迫力負けず、苦しさに縛られず、やがてだんだんともやが晴れていく感じを受けたのだと思う。少なくとも私は貴重な巡り合わせをしたことに感動した。


なんということかと思うが、2度みてはじめて、もね(宮本かりんちゃん)の正体が分かった。ああなんということ。初見は青葉がゼロズレに位置して釘付けだったのでうっかり、もねの大事なワードを聞き逃した。私自身思ったより気が気でなかったのだろう。だって矢島さんが寝そべった時に目線がドンぴしゃだったのだあれは強い。さておき、ちゃんさんこの日は初見より気が散っていたように見受けられた。顔にかかる髪を直してしまったり(そういう演出ではないと思うが一応)、目線に落ち着きがなかった。大事なシーンでつまったりもした。だけど何事もなかったように続けた。何事も調子というのはある。この日のアフタートークショーで村上さんが出演者仲良く温度がよくなってきて誰が調子いいとか悪いとかなんとなくわかると言っていたが、すぐにかりんちゃんが過った。でもすごいよあのこ。彼女のハードコーティングされた演技には果てのない気概を感じる。主役を積極的に喰っていくキャラクターだから印象も強い。とにかく声の出し方が板についている。なつみんは淡々としているから何だかふわふわとつかめなくて気になる。何にでもなれそうな焦点の定まっていない感じがする。とんちんかんな役をもっとみたい。ふたりの役柄の対はそのままふたりの目指す方向のあらわれなのかもしれない。


舞台のワンシーンをみていて、のぞみしゃんが本当にそこにいるのか居ないのか分からなくなることがままある。徳永さんが一番当て書きされているなと思ったのは「そうでしょうか?」の言い方。徳永さんじゃなきゃ出来ないと思う陽だまりのような役だった。ヒロインのつくってぶった感じがひとつもない。「持って生まれたもの」に誰より無自覚であるからこそ「持って生まれたもの」になれる。一握りの選ばれた人なのだと思う、だって千奈美ちゃんの笑顔をみていると毎日そこへ通いたくなるもの。ホームをつくる人柄だから、あんなに舞台の色が明るいんだと思う。そんな徳永さんに矢島さんはどっか引っ張られたんじゃないかなと思った。今に限らず。演技に限らず。だけど矢島さんはなぜかアウェイが似合う、と個人的には思う。毎日顔付き合わせてるような10年来の友人でも舞台の上じゃ初顔合わせ。間違った道にそれそうになった時、体ごと抱きとめられるのがのぞみしゃんであること、役と本人と、いったい何想うだろう。あの時、青葉の顔がよくみえないのである。


好きなシーンがある。
青葉が「言わなくてもいいことを言って欲しいのが人間だ」と誠亮に告げる。「居なくなった者の言葉に縛られたら、ロクなことがない。わしは貝になって黙る」と突っぱねる誠亮。「眠れ青葉」と、誠亮は青葉を理不尽なすべての出来事から遠ざけようと願うが、青葉は出来事の一切を受け入れ、夢から醒めて現実でおとしまえをつけようと決心する。あの流れが好きだ。
青葉は何かうまくいかないことがあって都会から舞い戻るわけだけれど、そこで誠亮がひとりであった青葉を最大限慮る「青葉はなにひとつ他人のせいにしない」は私が矢島さんに感じている一番大きな要素でもあるので、みているとよく分からないオーバーラップを起こす。おとしまえをつけにいった屈託のない青葉と山崎家の行末を、山崎家の背後霊である高嶽院やもねと共に見守ることに徹した誠亮。なにかを言うよりも願う深い気持ちが、家族たちを包み込むように舞台一面を伝染するあの空気。これがオトムギの舞台なのか。


冒頭のシーンにあった誠亮の「泣かない青葉が泣いておる」から推察するに、青葉は誠亮を慕う「好き」というより、憧れ目指していた口の「好き」ではないだろうかと思った。誠亮の男気にあこがれ、涙はカッコ悪いとでもいいたげな青葉の物言い振舞いの数々。誠亮の畳の上で育った青葉は、後半になるに連れて少しずつ誠亮に近づいて行く。それでいて生前のいっとう良き姿で現れる誠亮もまた青葉であるのかもしれない。誠亮がおとしまえをつけにいくあの時。わしにだって出来ると仏壇の灯火を躍起に消し去る姿や全て自分の畳包丁が悪いと悪を被ろうとする姿もまた若かりし誠亮であり、今をゆく青葉。誠亮の誇りとおもいやりに満ちた「青葉」という作品。青葉がもつトゲトゲしい頑固さからは考えられないほどやさしい歌声の「ひかるかいがら」。万華鏡みたいにきらきらしながら皆の思いをくるくるのせる鎮魂歌が物語を締めくくる。黄色い青葉のつきたてのシュガースポットに誠亮はなれたのだろうか。はじめはそれをのぞんでいたかのような誠亮。だけれど青葉を、山崎家を見守りきったあの時、誠亮は現世に(青葉に)言葉を残さないことで、前に進んだ。だから迎えの船が来たのではないか。わからなくなった時は陽だまりのほうへ逃げていけばいい。青葉はこれからどこへもいける。思い出と過去とそういった古いこといろいろを手に取ってあるべき場所におさめてやらなきゃいけないこともある、ひかるかいがらを目印にしてゆけば雨空でもたぶんずっと早く陽だまりは現れる。