ゲキハロ第13回公演 「我らジャンヌ〜少女聖戦歌劇〜」

ゲキハロ第13回公演 「我らジャンヌ〜少女聖戦歌劇〜」
9/12(木)マーブル・9/15(土)トゥルース・9/16(日)リバース


本当に本物であることを示さないと物語が破綻してしまうシーンで、前髪のかからぬ方の頬をぐっしょり濡らした慧眼のジジちょを観てから、今日まで何も手につかなかった。たったひとつの発狂で、魂をスイッチする花音のオルガが歌いだした時、闇夜に灯がともり、目の前が涙でかすんだ。ならばこの身を捧げようと思えたというかそうするより他にないと思った。ジジが「あること」を言い張る時、ほだされていく民衆の反応を見て、何を馬鹿な…簡単に手のひらを反したりして卑しい…と穿っていたはずなのに、その姿は本物というより他なかった。あのジジとオルガは本物というより他に。



劇団ゲキハロ最終公演 「我らジャンヌ〜少女聖戦歌劇〜」はゲキハロに最高の華を添える。
ハロプロというアイドルサイボーグのあの子たちに、ミュージカルという最後の晩餐を。



1曲目から動けなくなった。梨沙子の歌はとてつもない波動を役に宿してると思った。だから、音楽がある最中は鳥肌が立ちっぱなしだった。裏返すと物語に没入しにくいところもある。歌が圧倒してしまうから。最初にみた配役はマーブル。オルガが花音でジジが梨沙子。ルネが熊井ちゃんでジャンヌがあやちょだったが、ジャンヌ初めての観劇は、劇中を形作る素晴らしい歌に込められた祈りと同化するように、こちらも祈りを捧げているような気分だった。むかし通っていた礼拝堂で手を合わせている時の澄んでいく感覚と似ていた。

でも、きっとその配役だけだったら私はこの演劇の深いところまで足を踏み入れなかったと思う。初めての観劇で受けた印象は、花音のオルガと梨沙子のジジはものすごく真の強い世界を描いていると思ったこと。ジャンヌのあやちょの魂の抜けた浮遊感。それはぴったりだと思ったけれど、願いや思いが透けすぎて、届かないとさえ思った。それくらいジジとオルガ2人を中心とした我らジャンヌには強さを感じた。運命を自分の力で変えていけるような、そういう生き抜いて生き切れるような活力を感じた。泥臭くも明るいとさえ思った。だけど、本当は全然そんなことはなかったのだ。リバースを観るまでは、私も歌の素晴らしさの恩恵をのうのうと受けていられた。


9/16朝。前日、あやちょは歌のソロパートを飛ばすという大きなミスをしたらしく、アフタートークで泣いてしまうハプニングがあったというレポートを見かけた。その翌日。一回目の公演。そしてこの回はリバースの東京千秋楽でもある。天気はあいにくの台風。払い戻しのアナウンスも前日から出てはいたものの、公演は開演15分押しの決行ムード。客席はほぼ空席もなく埋まっていた。


今まであやちょの歌をうまいとも、いいとも思ったことがなかった。可もなく不可もなく、パートの起用のされ方で相対的に好きだとかそういうのはあっても、それ自体で胸に響くとか、忘れられなくなるような焦がれるタイプの声ではないと思っていた。なのにちょっとどうしようもなくなった。あやちょが圧倒的だった。ただまっすぐ透明であることがこんなに気高くなる、それが舞台を観なければ、知られることはないのかと思うと途端にさびしくなった。舞台が悪いわけではないけれど、特質上ジメジメと囲われた舞台という場所にだけ、この歌が咲くなんて、あまりに清くて正しいから。その閉塞感はどこかあやちょの影を色濃くしてしまうようでもあり、意図せず皮肉めいた表現になってしまうあやちょが火刑台にかけたのはつんく歌唱だった。これは大変なことになったと思った。








※ネタバレ注意








最も好きなシーン。
オルガが発狂した後、ジャンヌをプロデュースすると陽気に歌いだす。
そこからもう涙が止まらなくなった。


そしてなんだかこれはおかしな世界を生きていると違和感を覚えて、その歌がはじまるやいなや、圧倒的に俯瞰の視点をもった花音の歌に物語がノッたと思った。彼女が主役ではないのかと思うほどだった。そこから物語が流転してやまなくなった。最初の少女は本当にジャンヌなのか。ジャンヌに拘り続けるダルク兄弟の姿は、ジャンヌにならないジジはいらない、と言っているようだった。ジャンヌを見間違えたことも嘘だったのではないか。ダルク兄弟はジャンヌに仕立て上げられれば誰でもよかった。本人たちも気づいていない欲望で。その気持ち悪さに気が付いて、公にしようと決意したのが、オルガ(あなただけに背負わせたりしない)。ダルク兄弟はジャンヌを失ったトラウマをやり直そうとしている。それが国を救うためとはどうしても思えないのだ。ピエールはジジを巻き込みたくないというより、ジジがジャンヌになってしまうことに対して、慌てていたようにも見える。ピエールはジャンヌとジジの間で揺れている。本当はジャンヌをかくまっていて、似ているジジに出てこられたら困る、とさえ思ったのではないかとそんな余計なシナリオまで想像する。とにかくジャンヌを愛してもジジに顔が立たず、ジジを愛してもジャンヌへの純愛が穢れてしまうことに囚われの身になっている男なのだ。ピエールはなぜ最後のシーンで白シャツだったのか。赤も青も脱いで。ピエールとジジの手を放すオルガだけはジジをジジとして証明しようとする。戦争を終わらせるためじゃなくて、ジジをジャンヌにすることが目的だったあの集団と一線を引こうとするように私には見えて仕方がなくなってしまった。はたまた、ルネは弱いなと思ったりもしたが、ピエールやジャンヌの妹であったルネこそジャンヌにも成り得た存在なのではないか。ていうか、本当はルネがジャンヌになりたかったのでは。そう考えると、オルガがみんなでジャンヌをプロデュースすると言ってしまえば、自分では言い出せなかったジャンヌになりたかった欲望も満たされる。それぞれ対のキャストには潜在意識のような薄い膜が張っている。マリオンが、花折り娘一人に頼ろうとするあなたたちがムカつくのよ、というのもどこかで気高い革命家の言葉に聞こえる。指導者であるコンスタンスが本来は民衆を巻き込むべきではないと考えていたかのように。異端に異様にこだわるシスター2人も、忠誠を誓いきれなかったハロルドとルーパードも何かをどこかで守ろうとして悔いているように。ジャンヌの信奉者だったヴァイオレットがファンクラブ商法に寄るのと、ジジをただの娘として店の手伝いに引き込んだアネモネも。商人として違うお金の儲け方をみせる。


冒頭に描いたシーンに戻る。ジジはジャンヌになってしまう。私がジャンヌだと壊れたようにそれしか言わなくなる時にはもう涙がとまらない。民衆は裏切り者として一旦ジジを祭り上げるが、火刑台におくられたジジちょをみて、初めてあれは本当のジャンヌだと口々にする。残酷でしかない。犠牲を捧げる姿こそがジャンヌだといわんばかりで奥歯をギリギリと噛み締める。でも苦虫を噛み潰しても確かに本当にそうとしか思えないのである。あれが本物のジャンヌなんだと。そして私は思う。ジャンヌってなんだよ、と。魂のかたちを嗅ぎ付けた祭り上げに鈍感なフリして加担している自分のことを。こんなことは美しさで気持ちよく終えてはいけない。あやちょの涙で洗い流せると思ってはいけない。あやちょの涙は、梨沙子の歌声は、何なのか、できることならその両面を支えて立つ見守り人・オルガのような魂を、これからの生活で忘れないでいようと思う。あの「La voix douce(ラ・ヴォワ・ドゥース)」、やさしい声を。





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