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不毛な恋愛論

分岐点っていくつもあるけど、幾度目かのそれが昨日と今日の間にあった。


最近、別れた原因がアイドルへ傾倒したことだとはっきり言われた。アイドルには敵わないと言われた。本当は気づいてたことだったけど、ハッキリ言われて取り返しがつかないことをしてしまったんだと思った。こんなことをここに書いてどうしたいのかわからないけれどなんとなく頭から離れないことだから残しておく。個人的な日記に書けばいいことだけど、アイドルバカの戒めにこの日記を使う。晒す方がむいている。後から見て自分が阿呆だと思えればそれでいい。


突然だけど私は男性を好きにならない。一方でおそろしく簡単にアイドルを好きになる。同じように女の子を好きになる。だけれど今現在好きな女の子と好きなアイドルが重なっていないことに最近気づいた。例えば今一番好きなアイドルである矢島さんみたいな気立てのよい女性はもちろん現実には好きにならない。もっとめちゃくちゃめんどうなことを考える人を好きになるからだと思う。ということは、現実での好きになる人にない要素をアイドルで補っているのではないかと思えてきて、ちょっと頭が混乱した。もちろん現実で好きな人はステージに立って躍ったり歌ったりしないので、その時点で同じ女の子であれど別次元の存在ではあるのだけれど、アイドルはその人となりみたいなものが影響するので、切り離せないことだと改めて頭を抱えた。いくつも歳の離れたアイドルにガチ恋まがいしていたことは1、2年前の日記からよくよく読み取れるが、そのアイドルはめちゃくちゃめんどうなことを考える人だったように思う。その時の私には現実に好きな人がいたが、その人も別にめちゃくちゃめんどうなことを考える人だったと思っている。好きな人と好きなアイドルの傾向が被っていたように思えるのだけど、



どうしてそれから矢島さんを好きになったのだろう。



矢島さんを好きになったタイミングに何か歯車が狂いだした気がしている。私が一つの失策から学ぶためにそれを整理しなきゃいけない気がしてショックからずっとほっておいてきたが、仕事を変えたら時間ができたせいもあり頭がもやもやと霞がかっている。これは多分大事なことだと思う。なぜ矢島さんを好きになったのか。好きに「理由」があるのはあまり望ましいこととして受け止められてはいないが、好きになる「タイミング」には理由があると思う。どうしても絡まった糸をほどく必要がある。だからここに書く。



矢島さんとはどういう人だろう。

私は矢島さんは強い人だと思う。人間、強い人なんていないというけれど、それでも強い人だと思う。頭まで筋肉だとか揶揄されるが、多分そうだと思う。CDJournalのインタビューを読む限り、悩みを親にも打ち明けないとかいっている。寝るとすっきりする。食べると回復する。しごくシンプルなものの考えをするスマートな人だ。しかもそれで表向きには爆発するとかもなし、常日頃笑顔を咲かしている。その笑顔に偽りや疲れの影はみえない。まさに健全な肉体に健全な精神が宿るという山田詠美(「ぼくは勉強ができない」参照)の言説を体現した人がそこにあらわれてびっくりするほどにびっくりしている。矢島さんの話はおもしろいとは言えない(何年もやっているソロラジオ参照)。というかバラエティ向きの話上手ではない。だけどおどろくほどマメで用意を怠らない人で何時間かけてんだってメンバーにもよく言われてる長文のブログで、さゆもラジオで褒めていたけれどそういったエピソードの引き出しの多さ、それを毎日のように持続させていく気力まで持ち合わせている人。本人いわく書き物が好き。気分転換になる。とか言うくらいの筆マメ。年賀状でベリキューメン全員に全員の似顔絵とメッセージを書いて送るような人。だけどそのかわり目の前のことがすっぽり抜ける。話かけてからすごく間をあけて反応する、だとか、目の前の告知を忘れるだとか、覚えたての歌詞を飛ばすだとか、大根おろしをおしぼりだと思って握るだとか、砂糖の入った白米に気付かないまま食べるとか、さいばしで食べていることに気付かないとか、そういったことがまま見受けられる。それを天然だとくくられる。


そこに、リーダーは天然だというけれどいろいろ考えて悩むこともあると思うんですと勘繰る女の子がいる。それが鈴木愛理さん。その勘繰り方は友情や家族のそれなんだろうけど、私はそういう勘繰り方は恋に似ていると思う。同性であるからよくよく成立するのだけど、異性ならそれは恋になると思う。だから異性も同性もないような私からするとそれは非常に恋のような心の動きに映る。これは勝手な価値観の話なので意味が分からないと思ったら、今すぐ読むのをストップしていただけたら幸いです。そうなるとどうしてもその鈴木愛理さんの心の動きが気になってしょうがなくなる。このあたりが終焉。矢島さん鈴木さんセットの「やじすず」がはじまれば、たちまち「こと」は反転する。


分かったのは改める必要性もない至極そのままなことで、私は鈴木さんが好きな矢島さんを好きなのだろうということだった。涙が出るほど情けない。だって少し前にガチ恋をしていたはずのぱるるが好きなんちゃんが好きと同じ構図だったから。もう少し引っ張ればかなこが好きなあかりんが好き、もある。これは本当にどうしようもない。そのあたりから私は自分の意味合いのなかでの「恋」が産まれる過程に飢えていたということになり、自分はいつから自分の恋愛をやめていたんだろうと思うようになった。表面上は続けていたつもりだったのにとっくに終わっていたのだ。それでは実際に終わりも来るはずだ。


ということは私はその個人の持ち味を好きになるというより、その人からその人への心の動きに反応しているだけなのだということ。だからこそ誰でも大好きなんだということを、今ひも解いてしまってとても情けなくなりました。この関係性に恋をする不毛な性癖はおそらく少女マンガをみて満たされるべき悪い少女趣味なのだろうが、それではもう刺激が足りなくなって、ひとたび現実にあるもので補える劇薬を知ってしまうと暴力性は加速し自制心に歯止めが利かなくなるおそろしい怪物になるということを晒さなければならない。私が現実の想い人に心底熱心になっていたとき、アイドルをみる余裕がなかったことがあった。そういう真理をどこかでいつも無視していた。


それが、なんとなく変化をはじめた。今までも深く浴びるような感動を得ていたのだけど、それでできあがる自分の状態がどうしても「気のおっきくなった私」であることが否めなかった。素直に感動し温かさをおぼえ明日からもなんとか頑張ろうと思える活力になるもの、それがアイドルのステージだと疑わないが、気の大きくなった私を幾年も持て余していたように思う。だけど独り身になって矢島さんを好きになっていったあたりからなんとなくゆっくりと変わっていった。アイドルの歌を届ける気持ちや、人を思いやる姿に、温かさや普遍なる愛をみつける。ゴージャスなステージにも、長机のむこうでもそれは同じこと。矢島さんはそういう人だった。宗教をもたない自分が、いつまでも底の見えないアイドルの穴を掘り続けるその行為の源泉にあるのは、本当に大事にしたい人を大事にする方法がわからなくて、愛とは何たるかと続けた模索だった。それを今日までうまく表現できないだけだったのかもしれない。


今度こそこのことをうまく証明できるだろうかあの人に。私にはしあわせにしたいと思う人がいる。アイドルの補助輪を外しても愛を証明できるだろうか。夏を過ぎてからずっと具合が悪い。